コラム

父の宝物 ~在りし日の姿に想いを寄せて~

No.59|2017年12月9日

 

 

 

ticket2 私の祖母は社交的な性格で交友関係も広く話し好きでした。子供の頃、こたつに入りみかんを食べながら祖母の話を聞くのが楽しみでした。明治時代の女学生の頃、通学路で毎朝、馬で出仕する乃木大将に会い、お辞儀をするといつもにこやかに馬上から敬礼を返して頂いたと夢見るような表情で話してくれました。また雪が降ると必ず祖父と新婚時代を過ごした新潟高田の大雪や、日本のスキー発祥となったオーストリアのレルヒ少佐の竹スキーを婦人連中で見学し興奮した話などしてくれました。

 

 一方軍医だった父は戦後、公職追放となり四国の田舎医者になりましたが、晩酌で酒が入ると演奏するギターや読書の他に大した趣味もなく、診療一筋で普段は私達子供には昔の自分の事をあまり話してくれませんでした。関東大震災で、買ってもらったばかりの自転車が壊れた壁に押しつぶされペチャンコになって悔しかった話や、切手収集で親しくなった小学校の友人の家に遊びに行ったら、何百人も統率する乞食の親分の家で「倅と仲良くしてくれてありがたいけど、お宅の様な家の坊ちゃんはここには遊びに来てはいけないよ。」と優しく言われ、乞食もあそこまでなると大変な器量で立派な人だった、などと感心した話を気分よく酔っぱらうと聞かせてくれました。

 

 父を知る親戚の人たちも皆亡くなり、少年時代を知る事は今やかないませんが、私が御茶ノ水の大学病院に勤務していた頃、週末に食事をしに行った中野の北口ブロードウエイに昭和50年頃まで鰻屋の隣に何故か蛇屋があり、ガラスのショーウィンドーの中で食用のシマヘビがたくさんとぐろを巻いており、四国から上京した父と通りかかった折、父が「まだこの店があったのか」と驚いていました。なんでも60年近く前の大正時代に、大久保小学校の友人たちと田んぼに蛇取りにいって、その店に持っていき小遣い稼ぎをしていたらしいのです。祖母からは体が弱かったと聞いていましたが、かなりの悪ガキだったようです。

 

 そんな父は子供の頃様々な物の収集趣味だったようで、切手や祖父が第一次大戦後医療事情視察のため派遣されていた時の土産の米国やヨーロッパの国々の様々なコイン、水晶などの鉱物標本を大事にとっていました。中でも切符の収集には熱が入っていた様で、昭和2年4月1日に小田原急行電鉄が開通して成城学園前駅が出来た時に、改札を通った第0001号の乗車切符は宝物のように保存していました。当時は様々な電車やバスの路線が日本国中で開通し、その度に第一号の切符を確保しようとしていた様で、正に「鉄ちゃん」のはしりです。

 

ticket1 札幌電気軌道会社、武蔵野鉄道、目黒蒲田電鉄など様々な切符を収集し、残念ながらその後、第1号は確保できなかったようですが、比較的早い番号で昭和3年1月28日の新大久保→代々木間の0025の西武鉄道の切符、昭和3年9月3日の黒磯→新宿ゆきの省線の018の切符などを確保しています。生前は語ってくれませんでしたが、第1号を獲得すべく学校をさぼって東奔西走したに違いなく“おかしな少年”の大変なエネルギーに脱帽です。

 

 またルー・ゲーリックがやって来た昭和6年の日米野球や、早慶戦の入場券なども大事にとってあり、私にはただの紙屑に思えるのですが私も父の亡くなった歳に近づき、古き良い時代を趣味に熱中し、楽しく生きた少年時代の父をいとおしく思うこの頃です。

 

   森 論外

 

 

 

理事長 弘岡泰正

 

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