コラム

故郷の水害に思う ~心よりご冥福をお祈り申し上げます~

No.61|2018年7月19日

 

 

 

 私の故郷の愛媛県大洲市はこの度の西日本大水害で甚大な被害を蒙りました。連日報道される被害状況に心を痛めています。

 

 山に囲まれた盆地の城下町の中心を肱川という川が緩やかな弧を描いて流れ、その川を掘りの様にして城山があり山頂に市内を見下ろすお城があります。冬には盆地の川で発生した肱川おろしで知られた霧が町中を覆い、昼ごろまで行き交う人の顔も見えない程になり、春には城山が桜で一杯になり、夏には豊かな川で鵜飼いが催され、提灯を飾った川遊びの船から三味線の音色がカジカガエルの鳴き声と混じり合い、ゆったり川面を流れてきます。秋には川べりの河川敷の小石の上にゴザを拡げ、中秋の名月をめでつつ各家からも持ち寄った名産のサトイモを用いた芋焚きの宴が行われます。山紫水明の地で故郷の人々はこの肱川の恵みを糧として昔から暮らして来ました。

 

 しかしながらこの穏やか清い川が突然悪魔に変身し、豊かな盆地を濁流に飲み込んでしまう洪水が昔からこの地を襲って来ました。この地の水害に対して江戸時代から城下町を守るため藩主は川の流れをかえ川岸が濁流に削られるのを防ぐ「ナゲ」という構造物を作ったり、川岸を石垣で防御壁とし、小規模な堤防を作るなどの対応をしてきましたが、自然の猛威の前には時に無力で城下町は何度も洪水に侵されてきました。

 

 戦争中の昭和18年、20年の枕崎台風の時には軍需物資として山から大量の木が伐採されたため川の上流の山々に降った大量の雨水を山の土が保持する事が出来ずに一気に川に流れ込み未曾有の水害になりました。昔の家の壁には18年や20年の浸水した水の跡が2階のあたりに残っていました。

 

 私の子供の頃には川岸には2m程の高さの堤防があるだけで川は容易に決壊し、台風シーズンにはいつも田畑や家々はあふれた川の水に浸かっていました。ある洪水の朝モーモーとなく牛の声で目が覚めると流れ着いた牛の首紐が庭の枇杷の木に絡まり牛が苦しげにもがいていました。川の氾濫を告げる半鐘が激しく打ち鳴らされる中、大きなリュックを背負わされ豪雨の暗闇の中、両親に手を引かれて小高い丘の上に避難した事はトラウマとなり、高熱でうなされたり嫌な事があるとき必ずその光景が夢の中に出て来ました。

 

agebune 農家の人々にとってはしばしば洪水で農作物が台無しになり絶望的な感じになったと思われますが一方で洪水で運ばれた肥沃な土壌が集まる若宮という処では立派なゴボウが育って高値がついたそうです。「オオゴトじゃったが家は流されなんだし、畑の水も引いたけん、もうなんちゃじゃないけんの。」などと言って七転び八起きで立ち直ったであろう昔の人のたくましさには頭が下がります。ハザードマップもなく、様々な通信手段もない時代に人々は川の氾濫に対して自らの家や身を守る工夫をしていたと思われます。

 

 度々氾濫する地域の家々は石垣を積んでしっかりとした土台の上に建てられており、宅地造成された上に立つ現在の住居よりも水害に強かったかもしれません。また、私の子供の頃には古い家の軒下に3m程の川船が吊り下げられている光景を良く目にしました。これは揚げ船といって日本中の川の氾濫の多い地域で自らの避難用に備え付けられていた様です。また同じく7~6mの孟宗竹の束が軒下に吊り下げられている家もありました。今や見ることもなく確かめようもありませんが、川の氾濫時にはこの竹で筏を組んで非難したとも推測されます。

 

 昭和30年代には立派な堤防が作られるようになり、昭和35年には肱川の上流に鹿野川ダムが完成して、川の氾濫は少なくなってゆきました。しかしながら未だ十数年おきに水害は生じており、川の氾濫に対して確実に有効な対策が打てていないように思われます。異常気象で益々洪水や土砂崩れが増える可能性があります。想定外という言葉は今や自然災害において日常化してしまいました。国の速やかな国土強靭化政策や各自治体のしっかりとした防災対策が望まれます。

 

 この度の水害でゴムボートで4時間にわたり倒れるまで多くの人を助けた青年の働きに感動しましたが、私達一人一人が先人の知恵を学び自助、共助、公助を全うできるように日頃から用意する必要があると思います。

 

   森 論外

 

 

 

理事長 弘岡泰正

 

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