ちゅらさんの島

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 昨年の暮れ女優の平良トミさんが亡くなりました。2001年に放映されたNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」のおばあ役で優しい語り口のナレーションが素敵でした。
私はテレビ放送をリアルタイムで見ていなかったのですが、10年ほど前に偶然ドラマの一部をテレビで目にし、大ファンのキャンデーズのスーちゃんを始め好きな俳優さん達が数多く出演しており、皆がお互いに思やる心優しいドラマの筋書きがすっかり気にいってしまいました。早速DVDを全巻借りて家内と二人で週末に見ていました。その頃我が家はすっかり沖縄弁となり職場の近くの沖縄料理の店に行っては三線を聞きながら泡盛と沖縄料理を堪能し、ついには店の主人の故郷の伊江島に友人たちと旅行に行ったりもしました。

 

 ところで「ちゅらさん」の舞台は沖縄本島からはるかに離れた石垣島の離島の小浜島です。番組冒頭で流れるキロロの”Best Friend”の音楽をバックにカサコソ歩く砂浜のヤドカリや綺麗な小浜島の景色にいつか行ってみたいと憧れていました。
さて私は思いつくといきなり行動に移す悪い?癖があり、3泊4日の中米コスタリカや、内モンゴルの旅では「いいかげんにして!」と同行する家内を困惑させてきましたが、今回は平良トミさんの慰霊の旅だと言って家内を説得しました。しかしながら実の所は毎日の憂欝な師走の冬空と多忙な日常から逃れて、あの南の島で一時を過ごしたいとの湧きあがる欲求を押しとどめる事が出来なかったのです。

 

  「こんな時期に突然思いついても絶対に宿も航空券も取れませんよ!」と周りの皆が言うのでムキになってネット予約をトライしていると奇跡的に12月29日のホテルの1泊が予約できました。暮れの28日まで仕事でしたが翌朝6時の羽田発石垣島行きの直行飛行チケットも運よく取れました。小浜島の1泊が素敵な日になるよう毎日天気予報を見ていましたが出発予定日が近づくにつれ雨マークが20%から50%となり、出発前日には70%となっていました。島の天気は変わりやすいし、あの辺の天気予報はあまりあてにならないとの説に希望を託しました。雨予報の天候の回復を祈りながら早朝の飛行機に乗り、昼前に石垣空港に近づくと飛行機の窓からは島の周りの光り輝くエメラルドブルーの海が見えて来ました。

 

 石垣地方は奇跡的に昨日までの雨が上がり快晴でした。さらに30分程フェリーに乗り小浜島の港が近づくと長い桟橋が見えて来ました。これがドラマの中で小学校高学年の古波蔵エリが「フミヤくーん、オトナになったら結婚しようね~」と言いながら見送りに走った桟橋に違いないと思い何枚も写真を撮りましたが後ほど違った桟橋であることが分かりました。島に降り立つと気温は24度です。2人ともすっかりドラマの気分で「やっと小浜島にきたさー」等と大はしゃぎです。ホテルに荷物をおろし、島に1台しかない小さな観光バスで他の一組と一緒に島の観光に出かけました。全周16.6kmの小さな島ですがちゅらさんの舞台となった民宿古波蔵荘がそのまま残っていました。外から中を覗き込むと人が住んでおり障子を閉められてしまいました。「ウエルカムです~ではなかったね。」などと言いながらエリーが看護師になって島に戻り、自転車に乗って訪問看護に行ったシュガーロードを通り、エリとフミヤが植えたカズヤの樹を目指いました。しかしながら残念な事にその樹はもうなくなっていたのです。その樹はドラマで海を見下ろす草原にありましたが、ドラマの後にあたりは牛の放牧地となり、何年か前に家畜の口蹄疫が流行った時、一帯が立ち入り禁止になり、さらに昨年沖縄地方を襲った史上最強の台風でカズヤの樹は飛ばされて無くなっていました。がっかりする私たちにガイドの運転手の酒焼けしたおじさんはエリがフミヤを見送った本当の桟橋や、高学年のエリや低学年の弟の慶達が通った小学校、エリとフミヤが将来を誓った美しい砂浜に連れて行ってくれました。

 

 サンゴで囲まれた沖縄の海辺の砂はブダイという魚がサンゴを食べておしりから出したもので1年に5トンにもなるという話やその砂をナマコが食べておしりから出してさらに細かいパウダーの様な砂が出来る話しに感激して自然保護の大切さと共に、この美しい島を大事にしなければとの思いを新たにしました。
また早朝に浜辺で他の宿泊客と一緒に水平線を上る朝日を見ながらトレーナーの指導でストレッチをし、その後、穏やかな波打ち際で飲んだモーニングコヒーは格別でした。

 

  今や小浜島はサトウキビと畜産の島で牛が1600頭に対して人口は600人で人口の半分はリゾートホテルの従業員との話を聞き、他の地方の離島の様に高齢化でさびれているのでは無いかと心配していました。ところがどっこい沖縄のおばあは元気です。運転手さんが小浜にはKGB84という人気音楽グループがあり「東京のテレビの徹子の部屋にもでたさ~。」と言っていたので早速YouTubeで見てみました。そこでは平均年齢84歳の小浜島ばあちゃん合唱団のおばあ達が元気に歌いながら踊っていました。

家内は将来小浜島に住みたいと言っていますが入団資格を得るにはあと14年かかります。いつの日か小浜島の砂浜で夕陽を見ながら泡盛を酌み交わしKGB84の皆さんと唄って踊る日が来る事を夢見ています。

 

 ところで私の血筋には沖縄に関係した人物がいます。目が悪かったために医者の道を諦め東京帝大の農学部で農芸化学を収め、当時の農商省から派遣されて戦前に沖縄県立農事試験場の場長としてサトウキビの品種改良 栽培に貢献した人で私の祖母の長兄です。
戦争末期に米軍が沖縄に押し寄せて来た時、多くの派遣されて来た役人は本土に引き上げましたが彼は最後まで沖縄に残り研究資料の整理と食料確保業務の先頭に立っていたそうですが下宿先が米軍の艦砲射撃の直撃を受け殉職しました。
長兄と仲の良かった祖母は亡くなるまでいつも優しい兄との思い出を聞かせてくれました。
彼の業績は2006年光人社から発行された田村洋三著の「ざわわざわわの沖縄戦–サトウキビ畑の慟哭」に詳しく載っています。

 

 

理事長 弘岡泰正

 

 昨年の暮れ女優の平良トミさんが亡くなりました。2001年に放映されたNHK連続テレビ小説「ちゅらさん」のおばあ役で優しい語り口のナレーションが素敵でした。
私はテレビ放送をリアルタイムで見ていなかったのですが、10年ほど前に偶然ドラマの一部をテレビで目にし、大ファンのキャンデーズのスーちゃんを始め好きな俳優さん達が数多く出演しており、皆がお互いに思やる心優しいドラマの筋書きがすっかり気にいってしまいました。早速DVDを全巻借りて家内と二人で週末に見ていました。その頃我が家はすっかり沖縄弁となり職場の近くの沖縄料理の店に行っては三線を聞きながら泡盛と沖縄料理を堪能し、ついには店の主人の故郷の伊江島に友人たちと旅行に行ったりもしました。

 

 ところで「ちゅらさん」の舞台は沖縄本島からはるかに離れた石垣島の離島の小浜島です。番組冒頭で流れるキロロの”Best Friend”の音楽をバックにカサコソ歩く砂浜のヤドカリや綺麗な小浜島の景色にいつか行ってみたいと憧れていました。
さて私は思いつくといきなり行動に移す悪い?癖があり、3泊4日の中米コスタリカや、内モンゴルの旅では「いいかげんにして!」と同行する家内を困惑させてきましたが、今回は平良トミさんの慰霊の旅だと言って家内を説得しました。しかしながら実の所は毎日の憂欝な師走の冬空と多忙な日常から逃れて、あの南の島で一時を過ごしたいとの湧きあがる欲求を押しとどめる事が出来なかったのです。

 

  「こんな時期に突然思いついても絶対に宿も航空券も取れませんよ!」と周りの皆が言うのでムキになってネット予約をトライしていると奇跡的に12月29日のホテルの1泊が予約できました。暮れの28日まで仕事でしたが翌朝6時の羽田発石垣島行きの直行飛行チケットも運よく取れました。小浜島の1泊が素敵な日になるよう毎日天気予報を見ていましたが出発予定日が近づくにつれ雨マークが20%から50%となり、出発前日には70%となっていました。島の天気は変わりやすいし、あの辺の天気予報はあまりあてにならないとの説に希望を託しました。雨予報の天候の回復を祈りながら早朝の飛行機に乗り、昼前に石垣空港に近づくと飛行機の窓からは島の周りの光り輝くエメラルドブルーの海が見えて来ました。

 

 石垣地方は奇跡的に昨日までの雨が上がり快晴でした。さらに30分程フェリーに乗り小浜島の港が近づくと長い桟橋が見えて来ました。これがドラマの中で小学校高学年の古波蔵エリが「フミヤくーん、オトナになったら結婚しようね~」と言いながら見送りに走った桟橋に違いないと思い何枚も写真を撮りましたが後ほど違った桟橋であることが分かりました。島に降り立つと気温は24度です。2人ともすっかりドラマの気分で「やっと小浜島にきたさー」等と大はしゃぎです。ホテルに荷物をおろし、島に1台しかない小さな観光バスで他の一組と一緒に島の観光に出かけました。全周16.6kmの小さな島ですがちゅらさんの舞台となった民宿古波蔵荘がそのまま残っていました。外から中を覗き込むと人が住んでおり障子を閉められてしまいました。「ウエルカムです~ではなかったね。」などと言いながらエリーが看護師になって島に戻り、自転車に乗って訪問看護に行ったシュガーロードを通り、エリとフミヤが植えたカズヤの樹を目指いました。しかしながら残念な事にその樹はもうなくなっていたのです。その樹はドラマで海を見下ろす草原にありましたが、ドラマの後にあたりは牛の放牧地となり、何年か前に家畜の口蹄疫が流行った時、一帯が立ち入り禁止になり、さらに昨年沖縄地方を襲った史上最強の台風でカズヤの樹は飛ばされて無くなっていました。がっかりする私たちにガイドの運転手の酒焼けしたおじさんはエリがフミヤを見送った本当の桟橋や、高学年のエリや低学年の弟の慶達が通った小学校、エリとフミヤが将来を誓った美しい砂浜に連れて行ってくれました。

 

 サンゴで囲まれた沖縄の海辺の砂はブダイという魚がサンゴを食べておしりから出したもので1年に5トンにもなるという話やその砂をナマコが食べておしりから出してさらに細かいパウダーの様な砂が出来る話しに感激して自然保護の大切さと共に、この美しい島を大事にしなければとの思いを新たにしました。
また早朝に浜辺で他の宿泊客と一緒に水平線を上る朝日を見ながらトレーナーの指導でストレッチをし、その後、穏やかな波打ち際で飲んだモーニングコヒーは格別でした。

 

  今や小浜島はサトウキビと畜産の島で牛が1600頭に対して人口は600人で人口の半分はリゾートホテルの従業員との話を聞き、他の地方の離島の様に高齢化でさびれているのでは無いかと心配していました。ところがどっこい沖縄のおばあは元気です。運転手さんが小浜にはKGB84という人気音楽グループがあり「東京のテレビの徹子の部屋にもでたさ~。」と言っていたので早速YouTubeで見てみました。そこでは平均年齢84歳の小浜島ばあちゃん合唱団のおばあ達が元気に歌いながら踊っていました。

家内は将来小浜島に住みたいと言っていますが入団資格を得るにはあと14年かかります。いつの日か小浜島の砂浜で夕陽を見ながら泡盛を酌み交わしKGB84の皆さんと唄って踊る日が来る事を夢見ています。

 

 ところで私の血筋には沖縄に関係した人物がいます。目が悪かったために医者の道を諦め東京帝大の農学部で農芸化学を収め、当時の農商省から派遣されて戦前に沖縄県立農事試験場の場長としてサトウキビの品種改良 栽培に貢献した人で私の祖母の長兄です。
戦争末期に米軍が沖縄に押し寄せて来た時、多くの派遣されて来た役人は本土に引き上げましたが彼は最後まで沖縄に残り研究資料の整理と食料確保業務の先頭に立っていたそうですが下宿先が米軍の艦砲射撃の直撃を受け殉職しました。
長兄と仲の良かった祖母は亡くなるまでいつも優しい兄との思い出を聞かせてくれました。
彼の業績は2006年光人社から発行された田村洋三著の「ざわわざわわの沖縄戦–サトウキビ畑の慟哭」に詳しく載っています。

 

 

理事長 弘岡泰正

 

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