稀勢の里が横綱に昇進しました

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kokugikan

 日本中が待ち望んでいた横綱 稀勢の里が誕生しました。

 

 子供の頃、相撲少年だった私はラジオの相撲中継にかじりついていました。また同級生と比べて頭一つ大きかったので神社の境内で行われた子供相撲で得意の二丁投げで活躍し、賞品の習字の道具やクレヨンセットや大きな番茶入りの袋、一升びん入りの酢などをせしめ母親から喜ばれていました。ある時私たちの町に相撲の巡業がやって来ました。町の中央を流れる肱川の河原に土俵が作られ町中は大変な騒ぎです。大好きな栃錦や栃光のサイン欲しさに宿泊先の旅館に押しかけましたが宴会が始まっており入れてもらえません。

すると玄関に長さが30cmもあろうかと思われる草履があり、顔見知りの下足番のおじさんに聞くとそれは身長2mを超えるジャイアント馬場似の大内山の草履でした。私は持って来ていたわら半紙に魚拓ならぬ草履拓をとるべく大草履をのせてわら半紙に写し取りました。下足番のおじさんも私をとがめず見逃してくれこの大内山の草履拓は少年時代の宝物でした。

   

 さて時代が下り私は御茶ノ水の大学病院で胸部外科の医局員として働いていましたが、何時も帰りが夜遅くなり、自宅マンションの近くの鍋屋横丁にあるうどん屋で食事をとっていました。そのうどん屋は8席ほどの小さなうどん屋ですが中で主人がうどんを打ち、女将が煙草をくわえてうどんをゆでる讃岐風のうどんで気に入っていました。ある時食事をしていると店の戸が開き、鬢付け油の匂いが漂って来ました。振り返ると大きな相撲取りが付け人と一緒に入ってきて私の隣の席に座りました。その関取は一杯入っているのか何やら大機嫌で私に「こんにちは。自分は鶴田浩二みたいに男前でしょう。私を知っていますか?」と尋ねて来ました。その頃私は下っ端の勤務医で多忙を極め、相撲中継を見る事もなく、すっかり角界の状況に疎くなっていたので、その関取の顔を知りませんでしたが付き人が「関脇の隆の里関です。」と教えてくれました。彼はおいしそうに肉刻みうどんを食べていましたが、大きな体の割に小食が気になり余計なお世話でしたが「そのうどんだけで足りますか?」と聞いたところ、彼は自分は糖尿病なので一日の食事のカロリーを決めていると話し、糖尿病の食事療法についてうんちくを語り始めました。私は自分が医者であることを告げ糖尿病や様々な疾患の話をして別れましたが、その後何度かそのうどん屋で同席して顔なじみになりました。

 

 隆の里は昭和57年9月場所で初優勝し、その時部屋で開かれる千秋楽の打ち上げパーテーに誘われました。夫婦して大喜びで杉並の二子山部屋に向かいました。張り切りすぎて部屋に早く着き過ぎ部屋の前ではガードマンがロープを張って警備していましたが「部屋の後援会の者です。」といって中に入れてもらいました。
中ではなんと土俵の鬼と謳われ 栃若時代をきずいたた初代若乃花の二子山親方が娘さんらしき人と一緒に宴席の準備をしており、自らテーブルを並べたり、お酒の準備をしています。しばらくして優勝パレードを終えて隆の里が一行が部屋に帰って来ました。2代目若乃花や貴ノ花、若島津等イケメン力士がいっぱいで家内はうっとりしています。有名力士と直接話が出来、一緒にお酒が飲める雰囲気にすっかりはまり込み、後先の事を考えず部屋の後援会に入会してしまいました。
その後隆の里は糖尿病にも負けず精進しポパイの様な体で横綱に昇進し「おしん横綱」と言われ1984年結婚しましたがなんと私は結婚式に招待されました。

 

 新高輪プリンスホテルの飛天の間の会場には数百人の人が出席していました。貧乏勤務医の私は家内と相談して私としては大奮発で5万円の祝儀を持って行きましたが、あろうことか受付の列で前に千代の富士、後ろに小錦に挟まれてしまいました。祝儀袋を出す段になって前後の2人は私の10倍の厚さの祝儀袋を差し出しています。それを見て私はこのような場所にはお呼びでないという恥ずかしい気持ちになり、うつむいて用意されたテーブルに向かいました。宴席のテーブルは6~8人の二子山部屋の後援会らしき人々で、皆年配で鼈甲の眼鏡をかけたり金時計をした中小企業の社長らしき人々です。私はすっかり萎縮してしまいましたが、「あなたはどうゆう御関係で?」と尋ねられ、出まかせに「隆の里関の健康のご相談を受けています。」と言うと「ああ主治医の先生ですか。関取を宜しくお願いします。」と言われお酒を注がれてしまいました。実際には他に立派な主治医の先生がいるはずで気が気ではありませんでした。ところで当日の事を私は良く覚えておりません。実はその日の朝から私は高熱が出て全身が痛く最悪の体調でした。おそらくインフルエンザに罹ったようなのですが当時はインフルエンザの検査やタミフルやイナビル等の治療薬は無かったので風邪薬と解熱剤を服用して臨み朦朧として帰宅しました。

 

 その後私は相撲のタニマチは私のような貧乏医者が関わるところではなくお金と時間がたっぷりある人のクラブであることを認識し、後援会から脱退し、もっぱらTVを通しての相撲ファンとして隆の里を応援していました。その後まもなく隆の里は引退し鳴門部屋を起こし、有望な弟子を育てましたが猛稽古が過ぎて弟子への暴行疑惑が報じられ、心配していました。残念ながら彼は59歳で急逝しましたが、その際に一番弟子の稀勢の里が人前を憚らず大粒の涙を出して嗚咽している姿を見て彼は本当によき指導者だったのだと思いました。まもなく稀勢の里は大関に昇進し近い内に横綱になるだろうと思っていましたがいつも大事なところで負けてしまいます。稀勢の里以外に綱を張る日本人力士は見当たらず鳴門親方の叱咤がなければ稀勢の里もダメかと半ばあきらめ日本人の横綱はもう現れないだろうと思っていました。

 

 さて今回の稀勢の里の横綱をかけた白鵬との大勝負で、土俵際に押し込まれ弓反りになりながら残してすくい投げで勝利した一番にはしびれました。捨て身の投げに奇跡的な力を感じましたが優勝後のインタビューで「誰かに支えられた様な気がする。」と亡き先代鳴門親方への感謝を述べていました。苦労を重ねて厳しい稽古に堪え親を大切にし、師を敬う良き日本人横綱の誕生を心から嬉しく思っています。

  

 隆の里もさぞかしあの世で喜んでいる事でしょう。

 

 

 

理事長 弘岡泰正

 

 

kokugikan

 日本中が待ち望んでいた横綱 稀勢の里が誕生しました。

 

 子供の頃、相撲少年だった私はラジオの相撲中継にかじりついていました。また同級生と比べて頭一つ大きかったので神社の境内で行われた子供相撲で得意の二丁投げで活躍し、賞品の習字の道具やクレヨンセットや大きな番茶入りの袋、一升びん入りの酢などをせしめ母親から喜ばれていました。ある時私たちの町に相撲の巡業がやって来ました。町の中央を流れる肱川の河原に土俵が作られ町中は大変な騒ぎです。大好きな栃錦や栃光のサイン欲しさに宿泊先の旅館に押しかけましたが宴会が始まっており入れてもらえません。

すると玄関に長さが30cmもあろうかと思われる草履があり、顔見知りの下足番のおじさんに聞くとそれは身長2mを超えるジャイアント馬場似の大内山の草履でした。私は持って来ていたわら半紙に魚拓ならぬ草履拓をとるべく大草履をのせてわら半紙に写し取りました。下足番のおじさんも私をとがめず見逃してくれこの大内山の草履拓は少年時代の宝物でした。

   

 さて時代が下り私は御茶ノ水の大学病院で胸部外科の医局員として働いていましたが、何時も帰りが夜遅くなり、自宅マンションの近くの鍋屋横丁にあるうどん屋で食事をとっていました。そのうどん屋は8席ほどの小さなうどん屋ですが中で主人がうどんを打ち、女将が煙草をくわえてうどんをゆでる讃岐風のうどんで気に入っていました。ある時食事をしていると店の戸が開き、鬢付け油の匂いが漂って来ました。振り返ると大きな相撲取りが付け人と一緒に入ってきて私の隣の席に座りました。その関取は一杯入っているのか何やら大機嫌で私に「こんにちは。自分は鶴田浩二みたいに男前でしょう。私を知っていますか?」と尋ねて来ました。その頃私は下っ端の勤務医で多忙を極め、相撲中継を見る事もなく、すっかり角界の状況に疎くなっていたので、その関取の顔を知りませんでしたが付き人が「関脇の隆の里関です。」と教えてくれました。彼はおいしそうに肉刻みうどんを食べていましたが、大きな体の割に小食が気になり余計なお世話でしたが「そのうどんだけで足りますか?」と聞いたところ、彼は自分は糖尿病なので一日の食事のカロリーを決めていると話し、糖尿病の食事療法についてうんちくを語り始めました。私は自分が医者であることを告げ糖尿病や様々な疾患の話をして別れましたが、その後何度かそのうどん屋で同席して顔なじみになりました。

 

 隆の里は昭和57年9月場所で初優勝し、その時部屋で開かれる千秋楽の打ち上げパーテーに誘われました。夫婦して大喜びで杉並の二子山部屋に向かいました。張り切りすぎて部屋に早く着き過ぎ部屋の前ではガードマンがロープを張って警備していましたが「部屋の後援会の者です。」といって中に入れてもらいました。
中ではなんと土俵の鬼と謳われ 栃若時代をきずいたた初代若乃花の二子山親方が娘さんらしき人と一緒に宴席の準備をしており、自らテーブルを並べたり、お酒の準備をしています。しばらくして優勝パレードを終えて隆の里が一行が部屋に帰って来ました。2代目若乃花や貴ノ花、若島津等イケメン力士がいっぱいで家内はうっとりしています。有名力士と直接話が出来、一緒にお酒が飲める雰囲気にすっかりはまり込み、後先の事を考えず部屋の後援会に入会してしまいました。
その後隆の里は糖尿病にも負けず精進しポパイの様な体で横綱に昇進し「おしん横綱」と言われ1984年結婚しましたがなんと私は結婚式に招待されました。

 

 新高輪プリンスホテルの飛天の間の会場には数百人の人が出席していました。貧乏勤務医の私は家内と相談して私としては大奮発で5万円の祝儀を持って行きましたが、あろうことか受付の列で前に千代の富士、後ろに小錦に挟まれてしまいました。祝儀袋を出す段になって前後の2人は私の10倍の厚さの祝儀袋を差し出しています。それを見て私はこのような場所にはお呼びでないという恥ずかしい気持ちになり、うつむいて用意されたテーブルに向かいました。宴席のテーブルは6~8人の二子山部屋の後援会らしき人々で、皆年配で鼈甲の眼鏡をかけたり金時計をした中小企業の社長らしき人々です。私はすっかり萎縮してしまいましたが、「あなたはどうゆう御関係で?」と尋ねられ、出まかせに「隆の里関の健康のご相談を受けています。」と言うと「ああ主治医の先生ですか。関取を宜しくお願いします。」と言われお酒を注がれてしまいました。実際には他に立派な主治医の先生がいるはずで気が気ではありませんでした。ところで当日の事を私は良く覚えておりません。実はその日の朝から私は高熱が出て全身が痛く最悪の体調でした。おそらくインフルエンザに罹ったようなのですが当時はインフルエンザの検査やタミフルやイナビル等の治療薬は無かったので風邪薬と解熱剤を服用して臨み朦朧として帰宅しました。

 

 その後私は相撲のタニマチは私のような貧乏医者が関わるところではなくお金と時間がたっぷりある人のクラブであることを認識し、後援会から脱退し、もっぱらTVを通しての相撲ファンとして隆の里を応援していました。その後まもなく隆の里は引退し鳴門部屋を起こし、有望な弟子を育てましたが猛稽古が過ぎて弟子への暴行疑惑が報じられ、心配していました。残念ながら彼は59歳で急逝しましたが、その際に一番弟子の稀勢の里が人前を憚らず大粒の涙を出して嗚咽している姿を見て彼は本当によき指導者だったのだと思いました。まもなく稀勢の里は大関に昇進し近い内に横綱になるだろうと思っていましたがいつも大事なところで負けてしまいます。稀勢の里以外に綱を張る日本人力士は見当たらず鳴門親方の叱咤がなければ稀勢の里もダメかと半ばあきらめ日本人の横綱はもう現れないだろうと思っていました。

 

 さて今回の稀勢の里の横綱をかけた白鵬との大勝負で、土俵際に押し込まれ弓反りになりながら残してすくい投げで勝利した一番にはしびれました。捨て身の投げに奇跡的な力を感じましたが優勝後のインタビューで「誰かに支えられた様な気がする。」と亡き先代鳴門親方への感謝を述べていました。苦労を重ねて厳しい稽古に堪え親を大切にし、師を敬う良き日本人横綱の誕生を心から嬉しく思っています。

  

 隆の里もさぞかしあの世で喜んでいる事でしょう。

 

 

 

理事長 弘岡泰正

 

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