八重の桜とMさんの事

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 10年前のある日、外来の受付から東北なまりのお年寄りの声が聞こえてきました。受付嬢とうまくコミュニケーションが取れず、大きな旅行鞄を肩から下げた小柄なお爺さんが興奮して大声で何やら言っています。診察室に呼び入れて聞いてみると、会津から出てきて近くのホテルに泊まっており、いつも飲んでる降圧剤が無く困ってやって来たのでした。しかしながら薬の名前が分からず「あの白ぐて丸い錠剤くんつぇ。」の一点張りで、私も途方に暮れましたが、幸い彼が薬局の名前を思い出し、私が地元の薬局に電話をかけ、やっと薬の名前が分かりました。そのやりとりから彼は「あんがてえなし。センセが気に入った。おれの主治医になってくんつぇ。」という訳でお付き合いが始まりました。

 

 

 

 Mさんは一人で会津の広い屋敷に住んでおり、N饗の会員で月に一度の定期演奏会に上京し、クリニック近くのホテルを定宿にしていたのですが、これからは音楽を聴いて一泊し、私の診察を受けて会津に帰る事となりました。早口の会津弁で私は半分ほどしか理解できませんでしたが、まもなく彼が大変な文化人でクラッシック音楽や様々な芸術に造詣が深い事が分かりました。彼は会津の歴史・文化の諸団体の会長さんを務める大変な人だったのです。診療の合間に少年の様な目を輝かせた彼から会津のお国自慢とともに戊申戦役の事、白虎隊の生き残りで東大総長になった山川健次郎や柴五郎等の郷土の偉人たちの話を聞くのが楽しみでした。

 

 

 

 2年ほどしてMさんが息子さんに伴われてやって来てきました。そして「父は月に1度上京し、N饗を聞いて先生に会うのを楽しみにしていますが、90歳近くなって体も弱って来たのでそろそろ一人旅はやめさせようと思います。」との事でした。最後となった診察の後にMさんは寂しそうに私の顔を見ていましたが鞄からなにやら取り出し、「これはわしが関係していた会津の工芸品だ、これを使ってわしを思い出してくんつぇ。」と言って差し出しました。開けてみるときれいな会津塗のお椀でした。その後、椀を決して傷つけない様、家人に厳しく申し渡し、私は毎日大切にそのお椀で味噌汁を頂いています。

そんなわけで今年のNHKの大河ドラマの八重の桜には大変な入れ込みです。実際の八重さんと比べ綾瀬はるかは美人過ぎ、むしろ渡辺えりの方が実物に近いのではないかとも思いますが、会津贔屓になった私はMさんの事等も思いだし、ドラマを楽しんでいます。

 

 

 

 ところで私は八重さんとは全く接点などないと思っていましたが、先日の放送で、明治4年に兄の山本覚馬の建白で設立され、八重さんが小笠原流作法と機織りを教えた日本で初めての女学校である京都の新英学校女紅場の話がありました。この学校はその後京都府立第一高等女学校になるのですが私の祖父の妹が明治時代に四国の田舎から川を下り、瀬戸内海を船に乗って上洛し、この女学校に学んだ話を思い出しました。大柄の才女で親戚から当時、女ビスマルクと言われた逸話があった大伯母です。40年前に私達は結婚の挨拶にこの大伯母の家をたずねました。もうかなり高齢でしたがしっかりしており、おしゃべりが女房の祖母の話に及び、福井の田舎から同じく京都府立第一高女に学んだ事が分かると大伯母はエッという表情を浮かべ「私と同じ年頃ね、あなたのお婆さんのお名前は?」と尋ね、女房が「佐藤ていです。」と答えると彼女の顔がぱっと赤らみました。「えっ、おていちゃん!あなたおていちゃんのお孫さん?おていちゃんは小柄で一番前の席だったけど、私は大柄で一番後ろの席で同級生だったのよ。」と感激の面持ちで女房の手を握りしめたのです。

 

 

 

 私は広島で生まれて四国で育ち、九州の大学で学び上京し、満州で生まれた女房は引き上げ後東京の下町で育ち、新潟の大学で学んで後、ともに東京の病院で知り合って結婚したのですが、それまでお互いに何の接点もないと思っていましたので信じられない縁にびっくりしました。その大伯母もとうに亡くなり、会津に帰ったMさんも風の便りで3年前に旅立たれた事を知りました。

 

 

 

 そんな訳で私は八重さんとほんの少しのつながりがある事を嬉しく思いつつ、Mさんの人なつこい優しい笑顔と会津弁を思い出し“会津ほまれ”をちびちびやりながら今宵もドラマの続きを楽しむとしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

理事長 弘岡泰正

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