割烹着とバレエコンクール

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あまりいいニュースがなく朝刊を開くのも憂鬱な毎日でしたが先日のSTAP細胞のオボチャン記事には久々にワクワクし、難しい内容はさっぱり理解できませんが割烹着姿の研究者に思わず心の中で万歳しました。私の母親はいつも使い古した割烹着を着て忙しく働いていましたがお正月には眩しいほど真っ白な割烹着を新調し、別人の様に華やいだ母を見て幸せな気分になりました。最近ではめったに割烹着姿の主婦を見かけなくなりました。割烹着にほのかな憧憬の念を持つ私は結婚以来40年間、妻に割烹着を着る様要求してきましたが「今どき時代遅れ!」と却下されていました。ところが一夜にして今や時代の最先端をゆく仕事着です。四の五の言わずに割烹着を着て台所に立ってもらいましょう。
またオボチャンがノーベル賞受賞の暁には割烹着を着て式に臨んでもらいましょう。

 

さてローザンヌの国際バレエコンクールも嬉しいニュースでした。日頃バレエなど見る事もない人間ですが、ニューイヤーコンサートでウィーンから中継されるワルツに合わせ宮殿で踊られるバレエに西洋文化の神髄を感じ入り、美しい容姿のダンサーに夢のような憧れを感じていました。
明治維新後に欧米から人種的に劣った黄色い物まね上手のサルの様に思われた我が同胞が今や圧倒的な技術と美しさで西洋芸術の頂点に立った事はご同慶の至りです。
つくづく我が国の文化的なレベルの高さを感じますが、このニュースを聞いて少年の頃の記憶が甦りました。戦後間もないあまり物のない時代の60年以上も昔、故郷の四国の山に囲まれた小さな田舎町の川べりにバレエ教室が出来ました。封建的な土地柄でカタカナの看板は映画館か洋裁教室のドレメぐらいのものですから男どもは老い若きも一体何をする処か興味津々で、悪ガキどもが堤防の陰からこっそり覗き見していました。

 

やがて地元のちょっとエエトコの女の子たちがお稽古事でバレエを習うようになりました。当時人気のやたらと睫毛が長く、星が光る目ン玉の大きな主人公の少女雑誌のバレエ漫画が拍車をかけたのかもしれません。醤油屋の美人姉妹や親友の妹も習い始め、とうとう私の妹達も通うようになりました。
1年程経ったある時、発表会が催されました。母親連中は皆大張り切りで我が子が宝塚の舞台にでも立つかの様に衣装等の準備で大わらわです。
NHKの三つの歌の公開放送や、浪曲師二葉百合子の公演、人形劇団プークもやって来た地元の最高の舞台の公会堂の床にいつものようにゴザが敷かれ、養老院のお年寄りがご招待で最前列に陣取ります。私と親友のM君は妹達の公演の幕引きを頼まれました。

 

緞帳に寄贈した地元の酒屋や電気屋さんの名前が刺繍されており、幕の底辺に長い竹竿が2本縫いこまれ、この竹竿を舞台の左右から同時に吊り上げたり下げたりして幕が開閉する仕掛けです。少女マンガの様な顔に舞台化粧した妹達の顔に「たまげたのぅ~」等と言いながら舞台の両端で顔を見合わせながらバレエの先生の指示に従い、幕を引っ張り上げるのですが、これが小学生にとっては想像以上に重く、左右のタイミングが合わないと、幕が斜めに上がり、気を抜くと幕がストンと落下しそうになります。何とか演目が無事に進行していましたが、一段と華やかな音楽がかかり始めた頃、突然、前の方のお年寄りから何やらチリ紙に包んだものが舞台に投げ始められました。お祭りの田舎歌舞伎や子供神楽の舞台へは「おひねり」が投げ込まれますがバレエの舞台では見たことがありません。バレエの先生も唖然としていましたが踊りの妨げになるのでM君に拾い集める様指示しました。その間私は重い緞帳を一人で必死に引っ張っていたのです。

 

妹達も長じてバレエから遠ざかり、そのうちバレエ教室も無くなりました。M君はその後音楽の道を志し、芸大を経て我が国でも有数の現代音楽の作曲家になりました。私は故郷を離れ、出稼ぎで住みついた東京で医療に従事しており、芸術とは無縁の生活ですが私達にとって少年の頃、西洋芸術の裏方の一端を担った遠い日の幕引きの思い出はバレエを見る度、人生の幕を引くまで脳裡に浮かんでくることでしょう。

 

 

理事長 弘岡泰正

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