妻の誕生日と義母の事

 妻と知り合った時、「どこでお生まれなの?」と言うありきたりの質問をした時、「満州でソ連兵の雨合羽の上で生まれました。」と言われて驚きました。 妻の父は戦前、ソ連と満州の国境に近い町で満州中央銀行の支店長代理をしており、母親は5歳と2歳の女の子を育て、戦時中、日本国内よりも比較的安全と言われていた満州の地で三番目の子供の出産を楽しみに穏やかな生活を営んでいました。 ところが日本がポツダム宣言を受け入れて敗戦した後、突如ソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、怒涛のように国境を越えて町に攻め込んで来ました。 その時臨月だった義母が産気づいてしまったのです。

 大混乱の中で日本人会が招集され、大議論の末、生まれたばかりの赤ん坊は到底無事に日本には連れて帰れないだろうとの意見や集団での引き上げの足手まといになったり、泣き声がロシア兵に聞かれて隠れている女性達の処へ踏み込まれる等の危惧から出産直後にお産婆さんの手で殺される事になり、多くの赤ん坊が短い命を絶ったのです。

 

 

 

 義母の出産に際してもお産婆さんを呼んで規則通りの処置をしてもらうはずでしたが、たまたま戒厳令が敷かれ、外出禁止で来れなくなってしまいました。 仕方なく自宅で産婆の助けもなく出産したのです。 お産に立ちあった義父は規則に則り、絶望の中で礼装用の白手袋をはめ、生まれたばかりの我が子の首を締めようとしたのですが元気いっぱいに手足を動かしている赤子の首をどうしても絞める事は出来ず、規則違反の非難を受けたとしても万難を排し、どんな苦労もいとわず家族みんなで日本に帰国する事を決めたのです。 その結果、妻はその当時生まれた赤ん坊でその地で唯一生き残った存在になりました。

 多くの赤ん坊を亡くした女性たちが「もう自分の処では用はなくなったからお宅で使ってください。」と泣きながら沢山のおむつを義母の処へ届けてくれたそうです。 後年、義母は妻の事を、「この子は多くの人の犠牲で助けられたのだから将来人助けの仕事につかせたかったと医者になる事を勧めた訳を話してくれました。 当時の悲惨な状況は想像を絶し、昨日までの親切にしていた現地の使用人や友人と思っていた人々は自国を植民地化した日本への恨みもあり、手のひらを返したように家財道具を略奪し、広場に連行された日本人は暴行や処刑されたのですが、そこに、マンドリンと言われる自動小銃を抱えたソ連兵が現れ、手当たり次第に日本女性を暴行し、略奪合戦に加わったのです。

 

 

 

 その後義父は中国の富を搾取した銀行員の一員とみなされて死刑判決を受け、刑務所に収監されていたのですが、日本人と中国人を差別なく融資をして助けた中国人が「この日本人は中国人の敵ではない。」と掛け合ってくれ、釈放されたのでした。 一方乳飲み子を抱えた義母は幸いな事に乳の出が良く、次女が栄養失調になりましたが3女の赤ん坊は母の背中で元気いっぱいに周囲に愛嬌をふりまいていたとの事です。 当時、凶暴なソ連兵は日本女性を手当たり次第レイプしたとの事ですが、赤ん坊を抱いた女性だけにはイエスを抱いたマリア像への潜在する信仰心のなせる業か手を出さなかったそうです。 そのため外出をするとき隣近所の女性が赤ん坊の妻を借りに来たこともあったようです。 やがて収容所に集められた両親ですが義父が皆の帰国事業の世話役となったため別々に行動する事になりました。

 一切の財産を失った母親はリュックサックを背負い0歳の赤子を胸に縛って、2歳の次女の手を離れないようにしっかりつなぎ、赤ん坊のおむつを一杯背中にしょった5歳の長女をもう一方の手でつなぎ、苦労の末女手一つで母国にたどり着いたのでした。

 

 

 

 さて戦後5~6年が過ぎ、次第に日本の国も落ち着いてきました。 引揚者として苦労した両親も何とかお互いに仕事を見つけ貧しいいながらもささやかで平和な暮らしを取り戻しました。 物のない時代でしたが各家庭では子供の誕生日を祝うようになりました。 小学生低学年だった妻は自分の家では誕生日を祝わない事を不思議に思い、ある時母親に「どうして私の誕生日はないの?」と尋ねた時、初めて誕生時の秘話を聞かされ、「私たちはあの時の辛い気持ちを思い出すのであなたの誕生日はしない事に決めたの。」と告げられたのでした。 妻はその時小さいながらその事情を納得し、それ以降両親に誕生日のお祝いをしてもらう事を諦めたのですが、同時に他人の誕生日には誰であれ心から祝ってあげようと心に決めたそうです。

 現在クリニックでは患者様から盆暮れにいただいた商品券をとっておき、すべての職員の誕生日にお渡し、ささやかなお祝いとしています。 忘れ物が多く失敗する事も多々ある妻ですが職員の誕生日を忘れずにいる妻に感心しています。

 

 

 

 さて先ごろ妻の母が100歳で旅立ちました。気丈な義母は最期までしっかりしており、色々と妻の相談に乗っており、母さん子の妻は時間があれば母親の病室を訪ねていましたが2週間ほど前に病院から義母の意識が無くなった知らせが入りました。

 人は意識が無くなっても最後まで耳は聞こえているという話を信じ、亡くなる前日、妻は母親の耳元で昔一緒に歌った「静かな静かな里の秋…ああ母さんとただ二人栗の実煮てます囲炉裏ばた」という小学唱歌の“里の秋”を繰り返し5回懸命に歌い、気持ちの整理がついたようでした。

 

 

 

 危篤状態になってから16日目の朝早く、姉からの母が亡くなった知らせがありました。 うつむいて電話をとる妻の肩が小刻みに震えているのを見て私は思わず後ろから抱きしめましたが、よく見ると妻は歯磨きをしながら逝去の電話を受けていたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

理事長 弘岡泰正

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