明治は遠くなりにけり

 明治生まれの患者はすっかり少なくなってしまいました。

 

 

 息子が庭に仕掛けた新聞紙ほどもあるゴキブリホイホイならぬ“ねずみ捕り紙”に両足がくっついて歩けなくなり、そのまま息子の背中に担がれて大騒ぎで外来にやってきたサト婆さんや明治42年の酉年生まれでインフルエンザに罹り、トリ・インフルエンザ騒動になったトリ婆さん。有名女優と同姓同名で、「若○あ○子さん2番診察室にお入り下さい」との呼び出しに、待合室が一瞬ざわめき、皆が周囲を見渡すと、低いしわがれ声で返事をしながらゆっくりと立ち上がり、皆を驚かしたジャバザハット似のA婆さん等、スター級のお年寄りもみんなあちらの世界に行ってしまいました。

 

 

 

 「昔、看護婦をしていた伯母さんが北里さんにずいぶん可愛がられたんだよ。」というトリばあさんの話に「どこの北里さん?」と聞くと、「先生、医者のくせに北里さんを知らないのかい、北里柴三郎先生だよ!」との返事に、診療そっちのけで“その時歴史が動いた”の松平アナ風に「それではその伯母さんはその後どのような人生を歩んだのでしょうか?」などと聞いてしまいました。どうもお年寄りの話をずーっと聞いていたい衝動に駆られ、診療がおろそかになる傾向は小生が婆さん子だった事が一因のように思います。

 

 

 

 さて四国の小さな城下町で40年ほど前までは下級武士の屋敷跡がそのまま残る地域にあった私の家の隣に生垣を挟んで古い土蔵がありました。祖母はいつもお隣には昔、秀才の兄弟が住んでいた事。二人ともその蔵の中で勉学に励み、兄は御維新でたいそうな働きをして明治の始めに岩手県知事や明治天皇の御用係になり、弟は緒方洪庵の適塾で蘭学と洋式築城学を学び、函館の五稜郭を設計した事や日米露和親条約で訪れたペリーやプチャーチンと渉りあった話を聞かせてくれました。その家は代が替わり、私が小学生の頃はしばらく空き家のようになっており、土蔵も壁が落ちかかっていました。

 

 

 

 野球少年だった私は学校から帰ると近所の悪がきと土蔵の壁にボールをぶつけて遊んでいましたが、そのうち“涓滴岩をも穿つ”ではありませんが20cm近くもある土蔵の壁に穴が開いてしまいました。その後も面白がって壁壊しに熱中し、多くの穴を開けてしまったのです。父親からは大目玉をくらいましたが近所の人は持ち主のいない土蔵が壊れかれてもあまり気にしない雰囲気だったように思います。さてある時地元の人が函館旅行に行った時、五稜郭の碑に大洲藩士武田斐三郎が設計したとの記載を発見し、地元の有名人発見との事で大騒ぎになりました。市役所の担当者が生家を捜し当て、私が穴をあけた土蔵の横に「武田兄弟生誕の地」という市指定史跡の碑が立ちました。さて史跡とはなったもののあまりにも土蔵の傷みがひどく20年ほど前に土蔵は完全に壊され、その土地は碑を残し、駐車場となってしまいました。隣の私の家も10年前に取り壊し駐車場となり、江戸の雰囲気を漂わせていた武家屋敷界隈は一変して無味乾燥の地方都市の景色になっています。

 

 

 

 ところでとっくに時効になっていると思いますが文化財を破壊した私は幕末のTV番組など見ると悪事を思い出し目覚めの悪い事この上もありません。何年か前に大洲城の天守閣が改築された際には罪滅ぼしでいくらかの寄付をさせていただいたのですが、これでご勘弁いただけるでしょうか?大洲市民の皆さんごめんなさい。

 

 

 

 

理事長 弘岡泰正

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