母の手

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 私は母と手を繋いで歩いた記憶があまりありませんが、かすかに思い出す光景があります。

私の故郷の町には田舎にしては珍しい長さが100メートル以上もある立派な橋が川の両岸の町を繋いで架かっていました。秋が深まって来ると昼近くまで濃い川霧が立ち、数メートル先も見えなくなる橋でしたが日が高くなるにつれて墨絵の様な景色が次第にはっきりとした色彩の風景に変わりました。盆地の冬の日は短く、山の端に日が翳ると橋の上は冷たい川風に晒されて手が凍えてしまいました。ある特別寒い日の夕暮れに、小学生の私は母の買い物のお供でこの橋を渡る事になりましたが普段あまり無駄な買い物をしない母が橋のたもとに開店した店で熱々の大判焼き(今川焼き)を買いました。そして紙袋に入った大判焼きを母はオーバーコートのポケットにいれたのです。

 

 

 

 ホカホカの大判焼きはカイロ代わりになり、私は母のポケットに手を入れて暖かい母の手を握りました。母と手をつないで歩いた事の無かった私はなにかとても幸せな気持ちで家路についたのでした。

 

 

 

 広島で父と原爆の2ヶ月前に結婚した母は戦後、先祖の地で開業する事になった父より一足先に山に囲まれた四国の小さな町に行く事になりました。生まれて間もない私を背負い、身の回りの物を両手に下げて台風の後の荒れた瀬戸内海を漁船に乗せてもらって小さな港に着き、洪水や土砂崩れで判らなくなった道を避け、辛うじて残った線路に沿って歩き続け、祖母が待っている家にたどり着いたのです。この道中がよほど辛かったらしく、子供の頃によく聞かされたものです。やがて父が戻り、田舎の開業医生活が始まると母は慣れない診療の手伝いや家事で多忙となり、もっぱら私の世話は祖母がする事になりました。母は乳が出なかった為、祖母が私を背負い農家にヤギの乳を貰いに行くのが日課でした。私はヤギのチーズが大好きですが、ヤギ乳で育ったせいかも知れません。

 

 

 

 さて15年ほど前に認知症になった母を連れ出して散歩する道すがら母は数分おきに「ここはあんたを背負って歩いた事がある。」と言い出しました。当初私は「そんな事ないよ。」と否定し、母を悲しそうな顔にさせていましたが。ある時妻が母から、私の子供時代、婆さん子になった私を余り世話した事が無く寂しかったという話を聞きだしました。私を背負って辛かった旅と背負いたくても出来なかった気持ちが母の記憶の中に残り、「ここはあんたを背負って歩いた事がある。」という話になった事がわかり、私はそれ以後いつも「うん、うん。」とうなずく事にしました。妻と熱心なヘルパーさんの介護で母を在宅で長年世話してきましたが病状が次第に進行して母は私の事も全く認識できなくなりました。

 

 

 

 今年になり排泄の失敗や転倒の危険も出てきたため24時間の見守りが必要と考えた私たちは母を介護施設でお世話いただく事にしました。葉隠れの職業軍人の娘の母は質素で気丈であり女々しさを嫌い我々子供を甘やかす事を一切しない人でした。他から見ると冷たくも見られ、誤解も多かった様ですが学生時代に毎月の仕送りに同封された手紙には愛情溢れる私への気遣いがしたためられ何時も瞼が熱くなりました。

 

 

 

 さて毎週末に母の入居している施設を訪れると、気丈だった母はすっかり涙もろくなり、肩を揉んだり手をさすったりする私に「有難うございます。あなたのお母さんもここにいらっしゃるのですか?」などと礼を言ってくれます。

正常な状態ではお互いに気恥ずかしくて、とても手を握る事がためらわれ、臨終の際にしか母の手を握る事はないのではと想っていましたが、今、週末に記憶をなくした母の手を帰りのバスの時間ぎりぎりまでさすりながら握り、子供の頃の母のオーバーコートの中で繋いだ手の暖かさを思い出しながら子供時分に果たせなかった母の手を握る事が出来る喜びを神に感謝するのです。

 

 

 

 

理事長 弘岡泰正

 私は母と手を繋いで歩いた記憶があまりありませんが、かすかに思い出す光景があります。

私の故郷の町には田舎にしては珍しい長さが100メートル以上もある立派な橋が川の両岸の町を繋いで架かっていました。秋が深まって来ると昼近くまで濃い川霧が立ち、数メートル先も見えなくなる橋でしたが日が高くなるにつれて墨絵の様な景色が次第にはっきりとした色彩の風景に変わりました。盆地の冬の日は短く、山の端に日が翳ると橋の上は冷たい川風に晒されて手が凍えてしまいました。ある特別寒い日の夕暮れに、小学生の私は母の買い物のお供でこの橋を渡る事になりましたが普段あまり無駄な買い物をしない母が橋のたもとに開店した店で熱々の大判焼き(今川焼き)を買いました。そして紙袋に入った大判焼きを母はオーバーコートのポケットにいれたのです。

 

 

 

 ホカホカの大判焼きはカイロ代わりになり、私は母のポケットに手を入れて暖かい母の手を握りました。母と手をつないで歩いた事の無かった私はなにかとても幸せな気持ちで家路についたのでした。

 

 

 

 広島で父と原爆の2ヶ月前に結婚した母は戦後、先祖の地で開業する事になった父より一足先に山に囲まれた四国の小さな町に行く事になりました。生まれて間もない私を背負い、身の回りの物を両手に下げて台風の後の荒れた瀬戸内海を漁船に乗せてもらって小さな港に着き、洪水や土砂崩れで判らなくなった道を避け、辛うじて残った線路に沿って歩き続け、祖母が待っている家にたどり着いたのです。この道中がよほど辛かったらしく、子供の頃によく聞かされたものです。やがて父が戻り、田舎の開業医生活が始まると母は慣れない診療の手伝いや家事で多忙となり、もっぱら私の世話は祖母がする事になりました。母は乳が出なかった為、祖母が私を背負い農家にヤギの乳を貰いに行くのが日課でした。私はヤギのチーズが大好きですが、ヤギ乳で育ったせいかも知れません。

 

 

 

 さて15年ほど前に認知症になった母を連れ出して散歩する道すがら母は数分おきに「ここはあんたを背負って歩いた事がある。」と言い出しました。当初私は「そんな事ないよ。」と否定し、母を悲しそうな顔にさせていましたが。ある時妻が母から、私の子供時代、婆さん子になった私を余り世話した事が無く寂しかったという話を聞きだしました。私を背負って辛かった旅と背負いたくても出来なかった気持ちが母の記憶の中に残り、「ここはあんたを背負って歩いた事がある。」という話になった事がわかり、私はそれ以後いつも「うん、うん。」とうなずく事にしました。妻と熱心なヘルパーさんの介護で母を在宅で長年世話してきましたが病状が次第に進行して母は私の事も全く認識できなくなりました。

 

 

 

 今年になり排泄の失敗や転倒の危険も出てきたため24時間の見守りが必要と考えた私たちは母を介護施設でお世話いただく事にしました。葉隠れの職業軍人の娘の母は質素で気丈であり女々しさを嫌い我々子供を甘やかす事を一切しない人でした。他から見ると冷たくも見られ、誤解も多かった様ですが学生時代に毎月の仕送りに同封された手紙には愛情溢れる私への気遣いがしたためられ何時も瞼が熱くなりました。

 

 

 

 さて毎週末に母の入居している施設を訪れると、気丈だった母はすっかり涙もろくなり、肩を揉んだり手をさすったりする私に「有難うございます。あなたのお母さんもここにいらっしゃるのですか?」などと礼を言ってくれます。

正常な状態ではお互いに気恥ずかしくて、とても手を握る事がためらわれ、臨終の際にしか母の手を握る事はないのではと想っていましたが、今、週末に記憶をなくした母の手を帰りのバスの時間ぎりぎりまでさすりながら握り、子供の頃の母のオーバーコートの中で繋いだ手の暖かさを思い出しながら子供時分に果たせなかった母の手を握る事が出来る喜びを神に感謝するのです。

 

 

 

 

理事長 弘岡泰正

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